「ねえ。朝起きて、もしもあたしが猫になっていたら、あなたどうする?」 「…………」 またか。俺はその質問に正直うんざりしていた。 彼女が初めて俺に聞いてきた架空の話はどんなんだっけ――そうだ。「もしもあたしが人殺しだったら、あなたどうする?」確かこいつは俺にそう聞いてきたんだった。 そのときは「自首するように勧める」とかなんとか言ったら、どうやらそれは彼女の意に染まない返答だったらしい。か...
「ねえ。朝起きて、もしもあたしが猫になっていたら、あなたどうする?」
「…………」
またか。俺はその質問に正直うんざりしていた。
彼女が初めて俺に聞いてきた架空の話はどんなんだっけ――そうだ。「もしもあたしが人殺しだったら、あなたどうする?」確かこいつは俺にそう聞いてきたんだった。
そのときは「自首するように勧める」とかなんとか言ったら、どうやらそれは彼女の意に染まない返答だったらしい。かなり機嫌が悪くなった。
その後も、魚だったらどうする? 木だったら、ゴミだったら、と、彼女は様々な架空の話をして俺に聞いてくる。
いったいどういう意図があって、彼女は俺にそんなことを毎回聞いてくるのか。そもそもそれが俺にはわからない。最初はなにか不安なことでもあるのかとも思っていたけど、どうやらそれだけでもないようだった。
最初のうちはそれでも(俺からすれば)辛抱強く聞いて、考えて、彼女の喜びそうな答えをなんとか言おうとした。
しかしどうやら俺は彼女にとっては模範的な回答者とは言いがたいらしく、彼女が俺の答えに満足した顔をしているのをほとんど見たことはない。
そして彼女の質問に戸惑いっぱなしのまま、俺はだんだんその質問自体を鬱陶しく感じるようになってしまう。
「今忙しいんだ」
そんなことを言って、質問自体から逃げるようになっていった。
もちろんそんな俺の態度に、彼女はあからさまに不機嫌な顔をする。
しかし言わせてもらえば俺だってそんなわけのわからない質問をされて少なからず不愉快なのである。
そして今夜、冒頭のセリフが彼女から発せられたのだ。
「ねえ。朝起きて、もしもあたしが猫になっていたら、あなたどうする?」
「…………」
ついに俺は言ってしまった。
「知るか」
で、そっからが大変だったわけだ。
ちゃんと答えて。嫌だ。の不毛な押し問答のすえ、彼女は怒って俺の部屋を出て行ってしまった。風呂入ったばかりなのに、化粧もせずハンドバックだけ持って。
そのときはさすがに俺も焦ったが、しかしそれでも大人気なく「もう勝手にしろ!」なんて考えていた。
ガラステーブルの前にあぐらをかいたまま、飲みかけのビールを一気に飲み干す。
彼女が最近好きで聴いている音楽にさえムカツキを覚え、オーディオの電源を消して代わりにテレビをつけた。
そしてどれだけの間こうしていただろう。
やることもなく、ぼけーとテレビを眺めながら、早くも俺は後悔し始めていた。
「ちょっと言い過ぎたかな?」
なんて考えて反省してみたりする。
しかし、どう考えても今度のことは自分は悪くない。その思いはどうやら俺の中で変わりそうになかった。
一人ため息をつく。
今夜は、彼女と二人で過ごす予定だった。
だから当然他に予定は入れてない。
この夜は、このまま無為な時間を過ごすことになるのか。
そう考えると、ひどく空しい気持ちが押し寄せてくる。
「まあ、いいか」
空しさの後に去来したのは諦めのような気持ちだった。
あいつになにを言っても無駄だ。言葉が通じない。
そんな風にさえ思っている自分に気がつき苦笑する。
もう、今夜は彼女は帰ってこないだろう。
そう割り切って出かけることにした。
こんな夜に、一人でこの部屋にいたくなかったんだ。
「それでここに来たわけね」
ジンのロック片手にグチグチ愚痴を言う俺の話をひとしきり聞いたあと、マスターは男にしては高い声でそう言った。
「ああ、そうさ」
カラン。俺の手がグラスを揺らし、中の氷が音を立てる。
「バカだねえ。」
ためいき交じりなマスターのそんなコメントに、俺は少し身を乗り出した。
「だろう? まったく、あいつなに考えてんのかさっぱりわかんねえよ」
「私が言ってるのはあんたのことよ」
「ええ? なんでだよ」
「女はね。寂しがりやな生き物なのよ」
したり顔でオカマのマスターは言う。
「こんな女心がわからない男と付き合ってちゃ、あの子も不安にもなるわよね。かわいそう」
「……悪かったな。女心がわからなくて」
男だって寂しがりやなんだよ。そう思ったが、それを口にする代わりに煙草に火をつけた。
「特にあの子はね。いつも心のどっかに、孤独をかかえてるようなところがある子よ」
「…………」
一息吸って吐き出した煙が、やけにくっきりと店の空気に線を入れた。
「それはあんたもわかってるでしょう?」
「……ああ」
知ってるそんなことは。
悲しいくらい。
(――ねえ、どう思う?)
寂しがりやで臆病で人見知り。けれどそれを人に見せない。
だからみんなあいつのことを、社交的で明るい子だと勘違いする。
けれど、けれど本当のあいつはそれとは全く逆で。
(ねえ、どこにも居場所がないって、どんな気持ちだと思う?)
(ここはあたしのいる場所じゃない。そう思ってるのに、そこから離れられないの。それってどんな気持ちがするものだと思う?)
付き合って間もない頃、あいつは俺にそう聞いてきた。
じゃあ俺を、お前の居場所にすればいいだろ。俺は少しぶっきらぼうに、けれど出来るだけ優しく聞こえるように気をつけながらそう言った。
そしたらあいつ、笑ったっけ。
寂しそうにして。
いつも、心のどこかに孤独を抱えている女の子。
だけど初めて会ったときはとても明るくて、そんなことに俺は全く気づきもしなかった。
自分の気持ちを隠すのがとてもうまくて、気まぐれで。初めて体を重ねたときも、きっとあいつは俺のことを別に好きでもなんでもなかった。
ただあいつは寂しかったからそうしたんだ。
そしていまだに俺は、あいつがなにを考えているのかわからない。
これだけ一緒にいるのに。なのに俺はあいつのことを、時折どうしようもなく遠くに感じてしまう。
「あんたは、あの子の居場所になりたいんでしょ」
「ああ。けど、あいつは多分、俺を居場所だなんて思っちゃいない――って、なんで知ってんだそんなこと!?」
「バカだねえ」
マスターはクックッと笑った。
「あんたとあの子が付き合い始めたころにさ。あの子がこの店に来て、そう話してたのよ」
だからバカだって言ってんのよ。マスターはおかしそうに続ける。
「あの子、とても嬉しそうに話してたわよ。あんたが、俺を居場所にすればいいって言ってくれたって、とても嬉しそうにね」
俺は席を立った。
「あら、もう帰るの?」
「あいつを探さないと」
探して、見つけ出して、謝ろうと思った。
それに、寂しがりやなあいつのことだ。これ以上放っておいたら、どこで何をするかわからない。
「あっそう。ついでだからもうひとつ教えといてあげるわよ。女の子がそうやって絡んでくるうちは、その男にまだ気がある証拠よ」
女はね、どうでもいい男にはそんなこと聞きもしないんだから。
マスターのそのセリフを背に、俺は店を出た。
もしかして俺の部屋に戻ってきているかもしれない。
そう思って戻ってみたら、本当に彼女がいた。
「どこ言ってたの?」
泣きそうな顔をして、彼女が言う。
「ごめん」
俺は謝った。
「もうあなたは帰ってこないんじゃないかって、あたしさっきまでそう思ってたのよ」
「ごめんよ」
俺は彼女を抱きしめた。
甘やかな時間の後、彼女が俺に言った。
「で、どうするの?」
なんのことかわからず、間の抜けた声で俺は問い返す。なにを?
「だから、あたしがもしも猫になったら。そしたらあなたはどうするの?」
まだその質問は生きてたのか!
突然の難題に、俺は数秒間パニクった。
そして恐る恐る答えた。
「じ、じゃあ俺も猫になるよ」
「……意味わかんないんだけど」
思わずなにか言い返そうとして、思い直し、別のことを聞いた。
「今日はどんな一日だった?」
機嫌が悪そうな目で睨まれたが、ちょうど今日起きたことで話したかったことがあったらしい。
彼女はいつの間にかその話に夢中になり、俺はひそかにほっとしながら、その話に聞き入っているフリをした。
こうやって話をしてくれるってことは、どうやら彼女は今も俺のことを必要だと思ってくれているようだ。
俺には、彼女が本当はなにを考えているかなんてさっぱりわからない。
もしかしたら彼女も同じ気持ちなのかもしれない。男と女は、本当の意味ではなかなか分かり合えないのかも知れなかった。
けれど、俺はこいつのことが好きだから。
だからこれからも、そのたびに変わる彼女のルールで伝え続けようと思った。
ただ、好きだという気持ちを。

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